日産コンツェルンの創始者 鮎川義介に学ぶビジネスチャンスのつかみ方

名経営者に学ぶ ビジネスチャンスのつかみ方

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日産コンツェルンの創始者 鮎川義介に学ぶビジネスチャンスのつかみ方

鮎川義介
日産コンツェルンの創始者
1880~1967

努力だけで過去の事業が成功してきたか、というとそうでない。 やはりこれに運がプラスされている。 しかし、努力のないところには絶対に幸運は来ない。

鮎川義介(あゆかわよしすけ)は、戦前に日本鉱業、日立製作所、日本水産、日産自動車などの有力会社を傘下に持つ日産コンツェルンを築き上げた財界の大物である。
しかし、生まれつきの大物などどこにも存在しない。
鮎川も冒頭の言葉どおり、努力によって幸運をつかみ、そして成功をものにしたのである。
山口県で生まれた鮎川は、明治三十六年(1903)に東京帝国大学を卒業すると芝浦製作所(現在の東芝)へ就職し、鋳物職人となっている。
彼は、事業を興すためには現場を知っておいたほうがよいと考え、帝大卒という学歴を隠してまで職人の途を選んだのだ。
当時、帝大卒といえばエリート中のエリートで、どのような仕事にでも自由に就くことができた時代である。
入社した会社でいきなり幹部になることも珍しくない。
だが、彼はみずからの言葉どおり、幸運をつかむためにあえて努力をする途を選んだのである。
二年間鋳物職人としての技術を磨いた後、鮎川は単身渡米。
そして、最新の鋳物技術を持ち帰ると、外務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した大物政治家・井上馨(いのうえかおる)を「鋳物工業には大きな将来性がある」と言って説得し、支援を受けることに成功。
北九州に戸畑鋳物を設立した。
鮎川の予想どおり、戸畑鋳物が製作した鋳物は水道から鉄道までありとあらゆる場面で使われるようになり、彼は莫大な富を手にする。
昭和三年(1928)、義弟の久原房之助が持て余していた久原鉱業再建を引き受けるべく社長に就任。
社名を日本産業と変更し、日産コンツェルンを確立したのであった。
近道と回り道があるとき、私たちはどうしても近道を選びがちだ。
しかし、ビジネスに関していえば、近道が常に正しい道とは限らない。
鮎川が選んだ職人の途は、そのことをよく表しているといえるだろう。)

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